[ 月 と 、 ]





「ギャーーーーーー!!!!」




今日も今日とて探偵事務所内に響くのは弥子の悲鳴、




「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬーーーーッッ!!!!」




絶叫、




「ちょ・・・・っ、本気で殺す気ッ!!!?」




怒声。




対してその危害を加える張本人、直接的加害者の化け物はいつもの通り普段の通り、
「フン、」
端整な口許を三日月の如く歪めて嗤う日常。
そうしてそのうちに本気で命の危険を危ぶむ戯れが一通り終了したかと思えば、
次はその長い脚の先、靴裏でムギュウウウと踏み付けられた。
「ムギャッ!!」
汚くはないが決して清潔極まりないとは言えない事務所の床目掛け、
足裏で、ムリヤリ顔を密着させられて這いつくばらされる。


「今の潰れた声はそこそこ悪くないぞヤコ。 胃の腑から押し出したようなその音は下賤な貴様にしか出せん」


弥子が這いつくばったまま(踏まれ押さえ付けられて) なのをいいことに、
彼は更にげしげしと足蹴の連続、それもとても愉しげに。


「潰れた・・・って、アンタが潰してるんでしょーが・・・・っ」


蹴飛ばされるたび、踏み付けられるたびに体のあちこちにくっきり靴跡を残されながら、
弥子はゴロゴロ床を転がって、ネウロの脚でも届かない位置まで遠ざかる。
「いたた・・・・」
おかげで埃まみれになりながらも、何とかヨロヨロ立ちあがれば。
当の化け物はそれまで自分の背中の上にあったそれを大きく組み、
探偵椅子にこの上ないほど尊大に傲慢に横柄に高圧的にふんぞり返り、
居丈高に宣言めいた口を開いて。


「我が輩は少しばかり、腹が減り始めた」


その言い方に、また面倒が起こりそう、もしくは面倒に巻き込まれそうだとうっすら感じつつ、


「あー、そう。 私もけっこうおなか空いてるんだ」


どこかの誰かに無駄に痛めつけられてムダに体力消費する毎日だしッ、
とあえてスルーする向きでさらりと流そうとする努力は、
せっかく床に転がってまで確保した数メートルの距離も、長い脚の歩みでたった二歩半ほどで踏破されてしまった。
途端、長く骨ばった腕で乱暴にかけられる技、ヘッドロック。


「いたたたたた痛ーーーーッ!! 首が、首がもげるッ・・・・!」


偶然なのか何なのか(否、そういう技なのだが)、
ネウロの腕の肘関節部分は弥子の首にちょうどピッタリ、
まるで当て嵌めたかのように寸分違わずきっちりぎっちり嵌まってしまう。
「く・・・・っ苦し・・・」
息は詰まり、喉は締め付けられて痛苦しい。
このままこの状態が続いてしまったら、きっと渡っちゃいけない川を渡る破目になり、
お花畑でピーヒャララ状態になってしまいそうだ。
「息、出来な・・・・」
流石にここまで来ると、洒落にならない。 イコール強情ばかり張ってもいられない。
「ギ、ギブ・・・・」
降参、勘弁、の白旗を掲げ、どうにかこうにかその腕を解いてもらう。
魔手から逃れ、一も二もなくとにかくゴホゴホ、ゼーゼー咽返っていると。
必死で呼吸を繰り返す弥子を相手に、
ネウロはやはりやはりとてもとても愉快気、表向きだけ貼り付けた笑顔をもって腹が立つほどにこやかに。


「別に殊更痛めつけようとしている訳ではないぞ?」


「?」


え、それじゃ今までのって何かイミ、あったの?
と酸素摂取に勤しみつつ、見た目だけはとことん男前な顔を見上げた直後、


「遊んでいるだけだ。 他にイミは無い」


「・・・・・・・・・・・・」


身もフタも無い答え。 まあ大体そんなものだろうとは思ってもいたけれど。


「だが光栄に思え。 月とスッポンというやつだ。 月である我が輩が自らスッポンをオモチャにしてやっているのだ。 無い胸を張るがいい」


「スッポン・・・・。 無い胸・・・・」


「不満か?」


「・・・・・・・・もー、いい」


はーーー、と溜め息。
どうせ何を言ってもヤブヘビになるのだろうし。 ヘビ程度ならまだしも、薮を突付いて魔界の生き物なんて出てきたら、それこそたまったものじゃない。
そもそも何にも出て来なくったってコイツには勝てないし、通じないだろうし。
と、なると。


「忍耐だ・・・・」


今はただ耐えるのみ、頑張れ私、と弥子の呟きに、
耳聡いネウロは当然気付き、いちいち聞きとがめてきた。


「忍耐? ああ、その思考に到達した時点で軽症の絶望に辿り着いているアレか。 しかも一見、美徳を装っているというあたりも愚かしい限りだな」


「な・・・・」


「違うか? 忍耐は美徳、という確固たる証拠もあるまいに」


「う、」


反論できずに弥子は唇を噛む。
加えてそれを見るネウロのニヤニヤ嗤いが憎たらしいことこの上なく。
けれども所詮自分とネウロとの勝敗は最初から、出逢ったときからすでについていて。


「辛抱辛抱・・・・、我慢我慢・・・・」


結局、こうなる。
こうやって引き下がるのは120%、弥子の方である。 しかし。


「辛抱? 我慢?」


またもや言葉尻を捉えられてしまった。
今度は何ッ、と一瞬身構えた弥子に対し、奴はニヤニヤをニタニタ嗤いに変え、


「どちらも凡人の思い描く下賤な美徳だな。 まったく何処まで低級なのだ貴様」


言葉責め、毎度のことだが容赦がない。
毎度のことだから、多少は慣れたといえばもう多少は慣れもしてもいるのだけれど、
それでも。


「・・・・心、ってやつがないわけ? アンタには」


「フム、」


「こう、痛んだり思いやったりする心がないの? 魔界の生き物には」


そんな言葉を発しながらも、弥子だって取り立てて今、
心が痛いとか悲しいとかそういう訳じゃない。 繰り返すがもう慣れた。
というより気にしていない。
だからただの話のネタだ。 ただ話の流れでそう言っただけだったのだが。


「その貴様の言う 『ココロ』 というものは何処にあるのだ?」


意外にも、正面きって訊ね返された。


「え・・・?」


質問の意味が一瞬掴めず、きょとんとしてしまた弥子にネウロは重ねて訊ねる。


「人間の、何処に存在するものだ?」


「そ、それは、えっと・・・・」


虚を突かれた形。 何故だか口籠もってしまいながらも、


「やっぱり、一般的には胸の中っていうか」


「胸? 心臓か?」


「そのへん、じゃないかな」


私もそのあたり、よく分からないけど。 と頼りなく口添えて結んだら。












「――――――――― 糞味噌が」












本日最大、最高の賛辞。  ・・・・じゃない、最強の罵倒。








「!!!!」


「よく聞けヤコ、心臓など筋肉で構成された体内自動式の血液循環ポンプに過ぎん」


「・・・・・・・・」


「確かに貴様の言うよう、比喩としても 『情緒と感情の器』 だと大概の人間は意識しているな。 まことに結構な空想だ」


嘲笑しつつ、「だが、」 と彼は一息置き、
嘲笑を冷笑に変えた。


「実質、情緒と感情とは胃に宿るのだ。 そこにやってきたモノから抽出される。 食物が柔らかければ、自然と感情も優しくなろう」


無芸大食の貴様になら少しは理解できるだろう、と視線で促され、
「う、うん・・・・」
実際なんとなくわからなくもなかったから、曖昧に頷いてみせると。


「そこで、我が輩が先程貴様に何と言ったか覚えているか?」


突然の質問。 ええと。


――――――――― 糞味噌。


・・・・じゃない!!
確かにそうも言われたけれど、そこじゃない。 それじゃなくてそうじゃなくて。




「おなか、すいたぞ、って・・・・」




「もう一つだ。 我が輩、貴様をなんと呼んだ?」


――――――――― くそみそ。


・・・・違う!!




「・・・・スッポン?」




おそるおそる答えると、「カメムシ程度の脳味噌でよく覚えていたな」 と誉められた。
あんまり嬉しくない。




「立派な食材だ。 肉だけでなく生き血も重要な栄養源の生き物だな」




「・・・・・・・・ん」




また。
また、うまく丸め込まれそうになる。
今日は最初から、色気も何もない子供染みたSMもどきから始まったから大丈夫だと思ってたのに。












「喰ってやろう。  ――――― 来い」












差し出される腕。
それはさっきまでヘッドロックで自分の首を絞めていたものと同じものとは到底思えないほど優雅で、甘い誘いを持っている。




「・・・・私、アンタの食べ物じゃないもん」




自分の何処にも謎は無い。
全部全部わかってるくせに。 知り尽くしたくせに。


しかし弥子の科白に、ネウロは緩く首を横に振る。




「我が輩、喰う為に生きている」




「・・・・?」




それって違うでしょ、生きるために食べるんでしょ、
との無言の弥子の問い掛けに、彼はあっさり。




「それほどつまらん食べ方は無い」




言い切り、それからもう一度名前を呼んだ。




「ヤコ」




・・・・ずるい。
つい少し前まで、あんなに罵倒してたのに。 
同じ声で、でも違う響きで。
そして今まで何回、そんな声と仕種に騙されたかもう自分でもよくわからない。
我儘で自分勝手などうしようもない化け物。
それでも言いなりになってしまう自分は彼以上にどうしようもなくて。




「・・・・・・・・いろいろ壊れてるよね、ネウロって」




呆れながら、つぶやく。
私を抱いたってなんにもならないのに。 おなかはふくれないのに。
けれど欲しがる。 求めてくる。
末に満たされるのは彼の何なんだろう。 どこの部分なんだろう。
わからないまま見上げると、化け物は髪を揺らしてにいっと甘ったるく笑いながら。




「安心しろ。 貴様も根本的に壊れている」




深く満足気に吐かれる科白。




「・・・・だよね。 いいよ。 別に食べ物でもなんでも」




だって食べ物って大事。 なくなったら凄く凄く困る。
それくらい私にだってわかる。 だからネウロはもっとずっとよくその大切さを知っている。




自分でも半ば確信して頷き返しながら、弥子はその腕をするりと取った。
















「食物に対する愛ほど誠実な愛はない」
















重ねられる唇、
長い舌が口腔に滑り込んでくる寸前に弥子が貰った言葉。








可笑しい。 どんな顔してそんな科白を言ってるんだろう。
何よ今更、と笑ってやりたくなった。
気になる。 知りたい。 それはたぶん好奇心ではなく別の何か。












でも近すぎて、キスが激しくてネウロの表情なんか全然見えない。















結局最後はイチャ。
もういい加減、このパターンから抜け出したいです・・・